壁画とコミュニティアート 事前告知ページ


壁画の架け橋プロジェクト

アチェ津波博物館に子どもの壁画を展示

 2004年のスマトラ島沖地震で津波により甚大な被害があったアチェ州は、世界中からの支援で復興しました。2009年に開館した津波ミュージアムは、アチェにおける被災地ツーリズムの中心的な施設で、インドネシア国内はもとより海外からも多くの人が訪れる人気スポットです。

   宮戸小学校の全児童と1人ひとりが描いた「10
年後の宮戸島」(2011年)  

子どもたちの夢や希望は、海を越えて

東松島市立宮野森小学校 教諭(旧宮戸小学校 教諭) 宮﨑敏明

 平成23年3月11日の東日本大震災で、宮戸島の3/4の浜と家屋が津波で流されましたが、宮戸小の子どもたちは奇跡的に全員が無事でした。
 震災直後の平成23年度の春、保護者や教師は児童の心のケアを重ねてきましたが、子どもたちの心の痛みは、家庭や学校において様々な問題行動となって表れていました。この現状を打開したいという思いから、「10年後の宮戸島を図工で表現させたい」と、教員が一丸となって「宮戸復興プロジェクトC(チルドレン)」を始動させました。全校児童一人一人が描いた絵を、およそ半年をかけてひとつの作品にまとめ、ベニヤ板4枚分の壁画「10年後の宮戸島」が完成しました。避難所だった体育館に展示されると、声を震わせながら見る保護者や、涙を流しながら絵を見て、瓦礫のある浜へと作業に戻っていった島民の姿がありました。そこには、高層ビルや多くの交通機関が往来する未来都市ではなく、宮戸島の豊かな漁場、緑豊かな宮戸島の景色そのものが描かれていたからでした。
 この壁画は、島を訪れた支援団体や被災地視察の方々の心をも動かしました。その一つが外国の子どもたちとの交流に取り組む地球対話ラボでした。  地球対話ラボとの出会いから、「世界一幸福な国」ブータンや、2004年にスマトラ島沖地震で大きな津波被害を受けたインドネシア・アチェとの造形活動やスカイプ対話が実現。その中で子どもたちは自分の願いや思いを見つめ、外国の友だちに伝える表現力を自ら育んできました。「10年後の宮戸島」はアチェ津波博物館に受け入れられ、アチェの子どもたちによる壁画「10年後のアチェ」と並んで、恒久展示されることになりました。
 こうして、小さな島の教育実践が、新たに夢や希望を生み出しました。宮戸小の思いは宮野森小という新たな学校へと引き継がれ、アチェでは津波被災地を訪れる世界中の人々に、子どもたちの絵が語りかけています。
 日本で、世界各地で、大地震や災害が起こっています。先行きに希望がもてないと言われる中、子どもたちの夢や希望は国を超え、世代を超えてつながっていると強く感じます。そのつながりを勇気に変え、これからもそれぞれの地で、できることに精一杯取り組んでいきたいと思っています。

   壁画の補強作業(左からKSAのアブラールさん、
門脇さん、ハナフィさん)  
 

伝わる、つながる、たくさんの想い

特定非営利活動法人地球対話ラボ理事 中川真規子

 宮城県宮戸小とアチェの子どもたちそれぞれが未来を描いた壁画をアチェにある津波博物館に展示し、来館者に震災の経験と未来への希望を伝えることを目的とした「壁画の架け橋プロジェクト」。2016年12月24日、2枚の壁画は津波博物館に展示されました。
 壁画のフレームを製作するための木材・巨大なイーゼルの入手、フレーム製作ワークショップ、組立・展示作業などを、他のいくつかのプロジェクトと並行しながら進める中で感じたのは、参加する人々それぞれのアツい想いです。
 現代アーティストの門脇さんが「アート」を語る姿からは、作品ができあがるまでの人との時間をとても大切にしていることが伝わってきました。アチェの若者メンバーや子どもたちと作った曲「ARIGATO, SAHABAT」は、壁画披露セレモニーでメンバーによって歌われ、セレモニーを盛り上げました。  通訳・現地コーディネーターのハナフィさんは、若者とNGOのこれからのことを真剣に考えるアツい先生です。何度も門脇さんと打ち合わせを重ね、必要なものを手配したり、若者メンバーをリードしたりして作業に取り組んでいました。同じく通訳と現地コーディネートをしてくれたパンリマさん。時に冗談を交えてみんなを笑わせ、時に何度も交渉を重ね活動に関する様々なことを調整してくれました。ハナフィさんやパンリマさんが話してくれたアチェについての様々な話は、私とアチェの距離を縮めてくれたように思います。
 そして、地球対話ラボの渡辺さん。異なる文化をもつ地でのプロジェクトでは、突然のスケジュール変更などのハプニングも多くありましたが、それらを冷静に判断し、プロジェクトを進めていく姿から多くのことを学びました。
 未来を描いた宮戸小とアチェの子どもたちと指導した先生の想いに、それを伝えようとする人々の想いが重なったのではないかと思います。たくさんの想いが2枚の壁画を通して訪れる人々に伝わってほしい、そう感じたプロジェクトでした。

コミュニティアート in アチェ

   
         
 東日本大震災直後、情報が恐ろしいほどにあふれ出し、自分にはもうこれ以上つけ加えることなど何もないという無力感に襲われた。何かを表現すること、何かをしたり、つくったりして、それを「ひと」に発信することを自分のよりどころとしていた私は、その唯一と言ってもいいようなよりどころを失い、情報が津波のようにすべてを襲い、押し流し、洗い合うのを目の当たりにして、自分がこれまでやってきたこともまたこういうことだったのかと気づかされ、もうこの先、何かを伝えようなどと考えるのは決してするまいと心に誓った。あのとき、すべての日常が日常でなくなり、すべての価値が価値でなくなったあのときの気分を正確に取り戻すのは、もうすでにかなり難しくなっているけれど、確かに私はそう固く心に決めたのを覚えている。
 そんな私に、いかにも気軽に「被災地の映像撮って来て〜」とたのんできた人がいた。「ツイッターとかよくやってるでしょ」みたいな。それが横浜に住む旧知のアーティストArt Lab Ovaである。その大元の依頼主が地球対話ラボだったことを知るのはその後のことだが。
 結局のところ、私はその映像を撮ることになる。Ovaへの「手紙」として。そして、「もう何かを伝えようなどと考えるのはやめる」という先の私の誓いは、「誰に向けているのかわからないような『情報』を垂れ流すのは金輪際やめる」ということだったと気づいたのだ。
 「コミュニティアート」とは、第二次大戦後のヨーロッパで始まった、アートによる社会問題解決に向けた取り組みのことである。アーティスト=他者が地域に入ることで、地域の課題を可視化したり、相対化したり、表現したり。すでにその歴史は古く、手垢のついたその言葉をあえて使う必要があるのかと立ち止まることも多い。いや、むしろ「アート」という言葉ですらそうだ。
 今回、インドネシアのアチェという、コミュニティ文化が豊かに息づく地域で、孤立化やコミュニティの再生が死活問題になっているような国からやって来た「コミュニティアート」や「アート」に、何ができるのだろうとも思った。しかし一連の企画に参加した若者から「みんなでおしるこを食べたり、毛糸を投げたり、歌を作ったり、こんな楽しい活動なのになぜ『アート』なんて(わかりにくい)言葉を使うのか」という言葉を受け取ることができた。その、おそらくは質問というかたちをとりながらの提案に対する私自身の考えはと言えば、むしろだからこそ使いつづけようと思う、というものではあるのだが。
 今回の一連の企画で7月と12月の2回、アチェを訪れたのだが、最初私は自分の役割を、「子ども支援を行うアチェの若者たちが求めていることを手伝うこと」ととらえた。それが何なのかを可視化したり、日本との関わりにおいて相対化したり、いっしょに表現したりしようとアチェの地を踏んだ。しかし私のそうした考えは、震災後、毎日通えるような地元での活動が活動の中心という、あまりに幸せな状況に慣れてしまった自分が考えた机上の空論だったことに気づかされる。ほんの数週間の滞在で何ができるというのか。そこで私は方針を変えることにした。私自身がやりたいことを提案し、それを手伝ってもらい、その中から何かを拾ってもらおうと思った。そしてそれは、震災前にやっていたこと、つまり遠隔地へ出かけて行って、短い滞在の中でその地域を「読み込み」ながら、手伝ってくれる善良な人々の善意の上に乗っかった、なんとなくそれらしい達成感を味わえる共同作業的な何かに過ぎないのかもしれないのだが。
 7月の滞在で手に入れた「東北とアチェは兄弟のようなもの」という言葉を盾に、津波によって沿岸から4キロ内陸にあるプングブランチェ村まで流され、現在は巨大な震災遺構として多くの被災地ツアー客が訪れる発電船「PLTD Apung」での展示とワークショップを立案した。村の人たちにも何をしたいのかを知ってもらうために、仙台の仮設住宅で始め、現在も復興住宅で行っているおしるこを食べる会「おしるこカフェ」を敷地内で行うことにした。白い毛糸をインスタレーション(仮設展示)として敷地内に設置するとともに、これから日本へ旅立つアチェの技術研修生たちに発電船の屋上から投げてもらった。それは東日本大震災=東北の象徴としての「雪」だ。もちろん、アチェには雪は降らない。同じ経験をしたものどうしが、時間や空間をこえてお互いの気持ちを「わかる」と言う、その象徴としての、ささやかで、不確かで、はかない存在としてのそれだ。
 いわば「ドキュメンタリー」としてのラップと音楽づくりは、震災後に始めたものだが、今回のアチェの企画でも、7月の初めての訪問から12月の再訪の間も制作は進行し、最終的には発電船での展示オープニングやアチェ津波博物館での壁画お披露目セレモニーで上演、現在はiTunesなど各ストアから配信されている。バンダアチェ郊外のランビラ村を訪れ、みんなで遊んだおり、「いっしょに歌をつくろう」と言ったのを覚えていたTPMTの若者ラウダーが、Facebookのメッセージで「生まれて初めて書いたアチェ語の詩」と送ってくれたのがきっかけだ。後に、ふだんはインドネシア語を使うため、若者は満足にアチェ語を操れないということがわかり、なぜ「生まれて初めて書いた」のかを知るのだが。通訳のパンリマさんが「これはアチェ語とインドネシア語がまじったヘンテコな文章です」というその詩は、しかしそれ自体が今現在のアチェ語を表しているのではと考え、「それでもここだけは直した方がいいですよ」というところを修正したり、ランビラ村でアチェ語の達者な若者にも手直ししてもらったりしながら、12月の滞在中に少しずつ育っていった。レコーディングに参加してくれたのはランビラ小学校のこどもたちと、KSAの若者たち。いずれもちゃんとレコーディングの日程を打ち合わせ、練習を重ねて、といったプロセスはなく、ヒマそうにしている若者やこどもに声をかけ、あまった時間で「じゃ、今やってみる?」的なノリでできあがっていった。
 タイトルは「Arigato, Sahabat(ありがとう、みんな)」。海をへだてても、知り合って友達になった私たちは、いつもお互いをなんとなく気にかけている。でも「あのとき」は違った。会ったこともない人たちのことを私たちはあんなにも心配した。その気持ちを忘れないで--そんな内容で、1番がアチェ語、2番が日本語になっている。ムクマルは初めてラップに挑戦。実に見事なパフォーマンスを披露してくれた。
 曲も録音も完成し、展示も全部整って、1日ゆっくり発電船で過ごす日があった。地元の彫刻家レストゥさんが作った彫刻の前で来場者たちが記念写真を撮るのを、すぐそばのデッキチェアに座ってながめていると、曲づくりに参加してくれたメルとムクマルが、かわりばんこにやって来て、こちらから尋ねたわけでもないのにポツリポツリとそれぞれの震災体験を語ってくれた。両親は無事だったけれど、祖父母は亡くなってしまったというメルは、今でも津波の映像を見ることができないという。一方、母を失ったムクマルはしばらく鬱々としていたが、両親とも失ったこどもが大勢いる中で、父だけでも助かった自分は幸運だったと考え、津波を乗り越えることができたと語ってくれた。
 そんな話を聞きながら、こうして遠く日本から、同じ被災地だからということで来ているわけだから、私という存在は、彼らに震災の体験を語ることが自分たちの役割だと思わせてしまっているのかもしれない。彼らが日頃それほど感じることもなく過ごしているかもしれないアチェ=被災地、自分=被災者ということに、常に向き合わせてしまう存在なのかもしれない。別にスマトラ島沖地震があったとかなかったとか、そんなこととは関係なく、アチェにはいろいろなおもしろいところがあり、そこに住む人々にもそれぞれの味わい深い人生があるにも関わらず、12年以上が経過したこの地ですら、やはりいまだにそこには「あの波」が押し寄せつづけているのかもしれない。自分自身もその「波」のひとつであるということ、そして同じく東北に住む自分たちも同じ「波」に流し流され、受け流したり、飲み込まれたりしながら生きているということ。そんなことを、アチェでアートをすることを通して私は思ったのだった。
  東北の雪をイメージした白い毛糸

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